打越眠主主義人民共和国

Sleepcratic People's Republic of Uchikoshi

トランスジェンダー

二、三年前のことだったか、私が船橋で操舵の練習をしているときに、船長からトランスジェンダーについてどう思うかと尋ねられたことがあった。私は本船で船員養成機関ではない一般の大学に進学した唯一の船員だった。だからその船長は経済だの社会問題なぞの話題をよく振ってきたのである。操舵の傍らこうした難しい会話に付き合うのは大変で、聞きかじっただけの知識でそれらしい返事をひねり出すのが精々であった。

船長はトランスジェンダーが公衆トイレを使うとき、男女どちらのトイレを使えばいいのかという問題について話していた。「ややこしいこと言わないで、ちんこついてりゃ男! ついてなきゃ女! それでいいんだよ!」というのが船長の持論であった。私はその理屈だと性器によって決定される性別と外見が一致していない人――例えば見た目はほぼ男性だが性転換手術を受けていない、生まれつきの性別が女性の人――などが公衆トイレを使う際、明らかに大きな問題が起きるのではないか*1と思った、ことまでは覚えているが船長になんと返事したのかは覚えていない。私がトランスジェンダーについて他人となんらかの意見を交わした(かどうかもわからない。黙ってやり過ごしたかもしれない)のは、今のところこのときだけだ。

なぜ急にそんなことを思い出したのかというと、日頃拝読している祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blogトランスジェンダーについて触れているのを読んだから。著者のdesaixjp氏は経済学者ノア・スミスがアメリカ民主党の政策について論じる記事について取り上げている。

 

desaixjp.blog.fc2.com

最後にトランスジェンダーについてだが(中略)Smithはこの問題については妙に歯切れが悪い。彼に言わせるとトランスジェンダー問題は「公民権運動」の範疇に入るものだそうで、つまり「何が人気があるかではなく、何が道徳的に正しいかに関する」問題なのだそうだ。だとするとたとえ人気のない政策であってもそれを止めていい、という理屈にはならない。路上の無政府状態や多様性宣言の義務化は公民権ではないが、トランスジェンダーの問題は「基本的な権利の問題に関係する」以上、今後も何年にもわたって民主党を分裂させる問題になるのではないか、と彼は指摘している。

 さて、この理屈は正しいのだろうか。本当にトランスジェンダー問題は「基本的な権利の問題」なのだろうか。Smithには是非ともかつてドーキンスが持ち出した疑問、「ゲノム的に白人とされる人物が黒人を名乗ると批判される。だがゲノム上の男性がジェンダーは女性だと名乗ればそれを認めない方が批判されるのはどういうことだろうか」という問いに答えてほしいものだ。トランスジェンダー公民権として認められるのなら、外見的な黒人が自身を白人と名乗ることも、その逆も「基本的な権利」として認められるべきではないか。あるいは人種でなく国籍でもいい。生まれた時にはラテンアメリカ某国の国籍だったが、「自分の心は生まれながらに米国人だ」と主張する違法移民がいたら、彼ら彼女らに米国生まれの者と同じ権利を認めることもまた基本的な権利になるのではないか。
 もっと言うなら、運動能力についても同じことが言える。生まれながらに運動神経の鈍い者が「心の中では天性のアスリートだからオリンピックに出場させろ」と言えば、Smithはその人物に五輪の選手として出場する資格を与えるべきだと主張するのだろうか。さらにヤバい話をするのなら、生まれながらの学習能力の制約のために偏差値が50にとどまっている学生が、心の中では偏差値70なのだから超一流大学に入学させろと言い出したら、Smithはそれに同意するのか。
 そうではなくトランスジェンダーのみを特別扱いするのなら、それは市民権というよりもむしろ「トランスに対して特権を認めろ、特別扱いしろ」という要求を受け入れることを意味する。まさに平等性に反する行動だ。少なくともドーキンスはそうした疑いを抱いていたのだろうし、それはおそらく米国の大衆も肌感覚として持っている疑問だろう。もちろん私もそう考えている。肉体が持つ限界とか制約の中で苦労しているのは別にトランスだけではない。他の誰もが肉体という枠の中で生きることを強いられているのだから、トランスも少なくとも公の場では他者と同様の制約を受けるのが平等ではないか。
 正直Smithのこのエントリーを読むと、米国のリベラルはこの数年のwokeの濁流に巻き込まれた結果として認知がいささか歪んでしまったのではないか、との思いを禁じ得ない。そもそも精神が肉体とは別個に存在するという心身二元論に与していない私の立場から見ると、生物学的な事実を無視し、精神こそが王様であるかのような発想法がそこまで根深く染みついている時点で、随分とお花畑な感性の持ち主に見えてしまう。ヒトだって生物の一種なのだから、もっと生物としてのヒトをきちんと見るべきなんじゃなかろうか。

原則的にいえば同意できる。というか、私自身もこの「肌感覚」を共有している。性別は、例外はあっても基本的には男と女の二つだ。いや、そうではない、自然界においても生物の性は実際にはグラデーションなのだ、という見方もあるようだが、私としては生物が有性生殖を行うためにこの二つの性の組み合わせを必要とすることからして、性が男女の二つであることは自明に思える。

そしてdesaixjp氏の心身二元論に与さないとの立場にも強く共感する。精神が肉体の状態によって、あるいは肉体が精神の状態に大きく左右されることを、私自身も常々実感しながら生きてきた。そしてこの二つの原則を採ったとき、出生時の生物的性と精神的な性自認が一致していないトランスジェンダーが、例えば性自認の側のトイレを利用したり、性自認の側のスポーツ競技に参加することを正当化するのは、難しいということになる。

しかし……本当にそれでいいんだろうか?

 

これはトランスジェンダーとはまったく関係ない個人的なことだが、私には一つ信条のようなものがある。その信条を持つに至ったのは移民の家庭に生まれたことがきっかけだった。両親は移民一世で、私が生まれたのは彼らがこの国に移住してからだった。聞くところによれば私は出生時には両親の母国籍で、生後数ヶ月を経て一家ごと帰化したという。書類で確認できるはずだが、したことはない。そういうわけで私は生まれも育ちもこの国で、自分がこの国の人間であることに一切の疑いを持ったことがない。

両親や親族たちは対照的に、私が彼らの国の人間だと信じていた、らしい。不確かな言い方なのは、日本語を使えなかった親族たちとは言葉が通じなかったからだ。私は日本語しか解さない。だが彼らは、それに両親も、私が日本語しか解さないということを信じられなかったようで、私に対して自分たちの言葉で話しかけ続けた。彼らのことは率直にいってただの外国人だと思っていたし、親しみをまったく感じなかった。

両親もほぼ似たようなものであった。移民にしては上等な日本語を話せたが、家庭内では常に自分たちの言葉を使っていた。そのために、私は両親がお互いに何を話しているのか理解できず、自分に対して話しかけてくる言葉のだいたい六から七割程度も聞き取れないまま成長することになった。「聞き取れないから日本語で話してくれ」と頼んでも、私が彼らの言葉を解さないと誰も信じないのである。それに母国の歴史で二つの王朝をまたいだ旧家の出身だった彼らには自分たちの家系に対する思い入れがあって、息子が自分たちの言葉を使わないことは威厳ある伝統への許されざる背信に等しいのであって……

そういうわけで、ナショナル・アイデンティティを巡る激しい不和は私の少年時代を丸ごと覆ってしまった。しかし、誰がなんといっても私はこの国で生まれて、この国の米を食って育ったわけで、自分で決めた自己規定が何にも増して優先されるのが当然だと感じたし、今でもそう思っているのである。

 

「人間は自分が何者なのかを知っているし、自分が何者なのかを世界に対して主張する、神聖不可侵の権利を有している」私は個人的体験を経てそう確信するに至った。もし自分で憲法を起草できるなら、人権規定の最初にこれを書き入れたい。ところで、この信条はトランスジェンダー問題に対して適用されないんだろうか。desaixjp氏が国籍を引き合いに出した下りを読んで、私は自分のなかに矛盾があると気がついた。

人間が自己規定しそれを主張する神聖な権利を持っているなら、トランスジェンダーが出生時とは違う性別で自己を主張することは認められなければならない。だが心身二元論にも性別グラデーション論にも与さない立場からでは、その主張を他者として承認できないではないか。そう、肉体の制限から外側には行けない。それはそうだろう、と思う。

この記事に結論はない。結局のところ、人生には他に心配しなければいけないことが、もっとたくさんある……当事者の方々には悪いけど。でも結局俺の生活にはこの問題って全然関係ないわけだし、知り合いにもトランスの人いないし。誰でもそうやってすっきりしないことを抱えながら生きているんじゃないでしょうか??? と、無理やりまとめた感を出して、筆を置く。

*1:なおこちらのサイトによれば、実際のトランスジェンダーたちは「性別移行の状況にあわせて、使用するトイレを徐々に移行」するとのことである。おそらく外見に合わせるということだろう。